地球経営の話 その2~すべての人に同じように見えてこそ真理だ

地球経営の夢は、私の悟りから始まりました。
その悟りとは、こうです。

「悟ることなど何もない。
私たちは、すでに悟りの中に存在しているのに、それが分かっていなかっただけなのだ。
悟りは、見えているもの、聞いているもの、感じているものの中に存在している」

悟りは選択です。私たちに残されたものは、実践だけです。
その実践がヒーリングです。人々は悟りについて昔から幻想を抱いています。
そのような人々に、私はよく尋ねてみます。
あなたの求めている悟りとはどのような価値があるもので、どのように使うものですか、と。
そもそも悟りそのものは、人には皆、生まれた時から備わっています。
しかし、悟りが幻想だといくら話しても、人々は簡単には納得できず、
また次のような質問をしてきます。

「丹学をすると、悟れるのですか?」
「悟ったら、いつも嬉しいですか?」
「悟ったら、いつも心が穏やかですか?」
また、ある人は
「悟った立場から見ると、お金というものは良いものですか、悪いものですか?」と質問します。

お金が良いものか悪いものかというのは、小学校に上がる前の子供がするもので、
大人がするような質問ではないはずです。悟りに対する幻想が人々にそうさせるのです。
ひどい幻想に囚われると、このような質問を何度も繰り返します。
誰もが悟りを特別な感覚だと思っているからです。
悟りの前では、自分たちの知識はすべて否定され、自分たちの考えはすべて問題があるように思います。
悟りがたいそうなものになり、自分たちは思考が低俗で堕落していて
自分のことを汚れた存在だと思う人々もいます。
悟りの世界を、この世界にはない完全で特殊な意識の世界だと期待しているのです。
平和にも自由にもなれない自分は、悟っていないから仕方がないと思っています。
悟った人と悟っていない人に対する長年の区別や分別が、今日の彼のような大きな混乱をもたらしたのです。
そのような質問をする人々に、指を一本伸ばして尋ねてみました。

「これが見えますか? これは何本ですか?」
「一本です」
「私も一つに見えます」

これが真理です。すべての人に同じように見えてこそ真理なのです。
あなたも一つに見え、私も一つに見えます。皆さんと私が同じです。
ところが、多くの人々は、私がそれを2つだと言うことを望んでいます。
なぜでしょうか? 悟りの意識は、どこか別のところにあると思っているからです。
見る、聞く、感じる以外のことに悟りはありません。
もしも私たちが見ているものを無視し、聞いていることや感じていることは不完全だからと、
見、聞き、感じていることを無視すれば、私たちに残るものは何もありません。
悟りについての話は二千年以上前からあります。
しかし、そのような悟りの幻想によって
あなたの人生と私たちが住んでいる世界がどれほど変化したでしょうか。

指を一本伸ばし、それを一つだと言うのは常識です。それが悟りです。
悟りというものは、取引のできる真理です。それでこそ悟りを活用できます。
これまで知られてきた悟りや救援は、取引できませんでした。
伝えることも、やり取りもできないなら、価値あるものとは言えません。
取引できる悟りにのみ意味があります。
この世はやり取りの過程を通して生産し、創造できるからです。

だから、悟りは常識です。
大切なのは、自分の選択を通して、その悟りが使われるということです。
どんな選択をするのか。良い選択というのは、悟ってできるものではありません。
悟りそのものは、もともと価値のない数字である「0(ゼロ)」のようなもので、
「空(くう)」です。悟りは人為的な努力を試みていない極めて自然な状態です。
だから、無心とも言います。例えるなら、水の中に入ってすべての力を抜き、
自然な状態で浮力を感じているようなものです。
これが二千年のあいだ、人類がさまよい探した悟りの実体です。
だからこれからは、悟りを選択しましょう。とても自然な心で、
何が善で何が悪なのかが分かること。
人為的・意図的に私心で執着したり、見たりしないことです。

良い選択をするのが重要です。
悟りそのものは、良い選択をするようには作られていません。
選択は品性によって行われます。悟りと品性は異なります。
品性は習慣であり、訓練を通して作られます。良い品性は良い生活を通して作られます。
品性が良くなると、悟りが自然に良い選択ができるように助けてくれます。
良い選択ができない悟りなら、その悟りは何の意味もありません。
地球経営は、品性を養うことから始まります。
その悟りを一般に広く普及すること、つまり悟りの大衆化が地球経営です。

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